うつ病体験談

親との関係性から受けた影響

こんにちは、fruitsloverです🍇今朝は早起きして涼しいうちに家の周りの草むしりをしました。朝早くから頑張れた日は一日楽しく過ごせそう♪と思ったら、疲れすぎてしまってたっぷりお昼寝することになっちゃった…🥺___こうした自分の“頑張り癖”は、振り返ってみると生まれ育った家庭環境の影響もあったのかもしれません。

さて、今日は私がうつ病になった3つの要因のうちの2つ目、【親との関係性から受けた影響】について書いていこうと思います。

私の家族はこんな人達です

生まれてから結婚するまで、私と両親はとても密接な関係で過ごしてきました。例えば、進学や友人関係とのことも何でも親の了承を取るのが当たり前で、自分だけで何かを決めることはほとんどありませんでした。その関係が、結婚を機に少しずつ、今まで通りでは上手くいかなくなっていったように思います。

結婚前の自分は、育った環境に疑問を持つ視点がなかった

私は結婚して初めて、自分の生まれ育った過程を外側から見つめ直す機会を得ました。それまでは、自分の家庭は至って普通だと思って生きてきました。

母は、料理上手で食卓にはいつも手作りのご飯をたくさん並べてくれました。人より少し過保護なところはありましたが、それも“母の愛情の形”と受け取り、違和感を感じることはありませんでした。

父は、単身赴任が多かったですが、こまめに電話をして家族のことを気にかけてくれる人でした。普段はあまり口出ししないけど、大事な場面では一緒に悩んでくれました。就職から定年まで一つの会社に勤め上げ、朝早くから夜遅くまで働く姿は、社会人としてのお手本のように思っていました。

また、私の家は田舎にあり、近所には父方の祖母も住んでいたため、夕食はいつも祖母が家に来ていました。宿題を見てくれたのも、折り鶴や編み物を教えてくれたのも、一緒にお風呂に入るのも、祖母でした。母と祖母は折り合いが悪く、時々ケンカになることもありましたが、父が不在の状況では子どもながらに「私が取り持たなければ」と仲裁したり慰めたりしてきたのを覚えています。

習い事や塾にも通わせてもらっていましたが、両親からは、成績や結果を出すことを求められていました。努力することや小中学校の勉強で100点を取るのは当たり前でした。良い学校に行きなさい、お金はないから私立大学や浪人はさせられない、とプレッシャーをかけられながら、親が納得できるような学歴を残すことが目標になっていきました。

毒親という認識

夫と結婚して、価値観や考え方の違いから、ケンカをすることが度々ありました。そうした中で、私と両親との”境界の薄い関係性”が変だと、夫から指摘されることがありました。その時に初めて、“毒親”という言葉を知りました。検索してみると、「過干渉」「不安が強く支配的」「過度な期待」など、頷ける特徴がいくつか見つかりました。でも、その言葉のインパクトは強烈で、「衣食住に不自由なく育ててもらったのに、毒親なんて認識してはいけない」と頭の中で必死に否定して、受け止めることができずにいました。

親を安心させることが最優先事項

夫がうつ病になる随分前ですが、夫とケンカして落ち込んでいた私は、母に相談したくて電話をしました。その電話で母は、「あんた達の結婚を許すべきじゃなかったのかしら。」「どうしたらよかったの。」と、慰めるどころか夫や私たちの結婚自体を否定し、途中からはなぜか私が母を慰め、不安を落ち着かせなければならなくなっていました。

また、車や家を購入する際にも、結婚祝いでくれたお金の使い道について口出ししたり、「子育てや私たちの老後を見るためには近くに住む方が良いから」と土地販売のチラシを渡してきたりと、自分たちの思いを押し付けることがありました。その際も私は、両親の意見も取り入れなければいけないと思い込んで、夫と意見が合わなくなることがよくありました。

私にとって、両親を安心させる選択が最優先であり、その思考の癖が夫とのケンカの原因になっていることにも、気づいていなかったのです。

両親との関わりと心理的ストレス

母の不安が一層強くなったのは、母方の祖父が他界した頃からでした。母方の祖母は当時から初期の認知症と診断されていましたが、祖父が同居していたので何とか生活できていました。しかし、心不全で突然祖父がこの世を去り、葬式の手配やその後の法要、認知症の祖母をどうしたらいいのかなど、母はすべてを抱えなければならなくなりました。正確には、「私がすべて背負わなければならない」と母が強く思い込んで、周りを敵対視したり被害的になったりと、自分で負のスパイラルに入っていってしまったのです。

そのうちに、母の愚痴を聞いたり相談に乗ることが私の役割になっていきました。「全然連絡くれないけど元気ですか?」「久しぶりの電話だね」などチクチクとした嫌味から始まる電話やメールに傷つきながらも、母を突き放すこともできずに、仕事と家事と育児で手一杯の日々の中で何とか時間を作って話を聞いていました。

新型コロナウイルス流行による母のフラストレーション

また、新型コロナウイルスの流行初期、田舎では感染自体の恐ろしさに加えて、感染したことによる周囲からの孤立も非常に恐ろしい問題でした。そんな中、母は私の必死の警告にも関わらず友人と旅行に出かけました。そのことがきっかけで、私は実家への帰省も子どもたちを両親に会わせにいくことも、頑として拒否するようにしました。それは両親にとって耐え難いものだったようで、「可愛い時期の孫に会わせてもらえない」と嫌味を言ったり突然訪問してきたりするようになりました。

夫を支えられるのは私しかいない

このような背景から両親を味方と思えなくなっていた私は、夫がうつ病になったことも、収入が減って生活が苦しくなっていることも、ひた隠しにするしかありませんでした。母からの依存的な言動にも今まで通りの日常を演じ、夫と両親が会わなくても済むよう、必死で立ち回るしかありませんでした。

孤独感とサポートの不足

色々なことが重なっていき、親族に夫のうつ病を相談できず、夫にも両親の愚痴を言いづらいという苦しい状況が出来上がってしまいました。段々と、家では受容的な妻・母を演じ、両親には親身な娘を演じ、自分らしくいられる時間が減っていきました。___自分の本当の気持ちを隠して偽りの元気と笑顔を作ることが、終わりの見えない日々を乗り切るためには必要でした。この状況を打破するのに誰にどんなSOSを出せばいいのか…考えても答えは出ないなら、考えてはいけない。目の前の日常をただただこなしていけば、いつかは終わりがくるはず…。そうやって、自分の孤独感と疲労感からも目を背けていったのです。

今、振り返って思うこと

記事を書いていて、とても苦しかったです。うつ病になる前は自分の心のSOSから目を逸らしてきたので、自分はこんなに傷ついていたのかと、改めて感じなおす機会になりました。

あのときの自分に伝えたいこと

両親との境界が薄いという夫からの指摘があった時点で、両親との関係について見つめ直すことができていれば、違う未来もあったのかもしれません。また、母の課題を自分の課題のように捉えてしまい、母の代わりに考え悩むことがとても多かったように思います。心を尽くして伝えても伝わらないことがたくさんあったのに、「両親の役に立たなければ!私は母の味方だと伝えなければ!」と、必死に“良い娘”を演じていました。

でも、私と母は別の人間です。母の苦しみや悩みは、母の問題であって私の問題ではないのです。そうやって正しく境界を引けていれば、肩から下ろせる荷物もあったのではないかと思います。

同じ状況にいる人へのメッセージ

兄弟は他人の始まりという言葉がありますが、親であっても自分とは別の人間です。すべてを分かり合うことも、問題を相手に代わって解決することも、できない時はあるのです。親の人生を親に代わって豊かにすることは出来ませんし、自分の心や体が壊れてしまっても親が代わりに治してくれるわけでもありません。

それよりも、自分が自分の人生を大切にして、少しずつでも幸せや喜びを感じて生きていくこと。それが親にとっての安心や幸せにつながると思います。

もしも、今あなたが親子関係で悩んでいるとしたら、「自分の心と人生を大切にするために、適度に距離をとる」ということも選択肢であることを、思い出してみてください。大きな変化ではなくても、新しい気づきや小さな発見が、毎日の生活に力をくれるはずです。

次回のテーマ

今日の記事はいかがでしたか?私にとってはとてもボリュームのあるテーマだったので結構エネルギーがいりました。でも、ゆっくり考え直すことが出来て少し視界が開けた感じがしています。

少し重たいテーマが続いたので、次回は【気持ちが楽になるちょっとした工夫】を書いていきたいと思います。

読んでいただき、ありがとうございました🍀

ABOUT ME
fruitslover
はじめまして、fruitsloverです。 マスカット、桃、りんご…フルーツが大好き❤ブログ初心者ですが、新しいことを始めることにワクワクしています♪ 夫婦でうつ病と向き合いながら、日々の工夫や体験をブログにまとめていこうと思っています。同じ悩みをもつ方にとって、少しでも参考になれば幸いです。 あたたかく見守ってください。

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