こんにちは、fruitsloverです🌰
最近はいつも、夫婦で夜に1時間ほど近所を散歩しています。
先日、空にまったく雲がなくて、満月に近いキレイなお月様が光っていて、収穫前の稲穂が月明かりに照らされていました。
いつもは見えないちょっとレアな景色が見られて、なんだか心がほっこり和らいだ気がしました。
みなさんも良かったら、短時間からでも散歩してみるのはどうですか?
思わぬ感動に出会えるかもしれませんよ😊
さて、前回は親を安心させることが最優先だった頃のことを整理しました。
そんな親子の関係性は、新型コロナの流行で大きく変化しました。
今日はその変化について整理していこうと思います。

新型コロナ流行初期、田舎住まいの恐怖
あの頃は私たち親子だけでなく、日本中、世界中の人たちの生活が大きく変化していましたね。
私たちが住んでいる田舎では、コロナ感染症の流行初期は「感染するとすぐに噂が広がり、後ろ指をさされるぞ」というような、まるで昔の村八分のような噂が広がっていました。
感染自体の恐ろしさと周囲からの孤立という二重の恐怖
都会のように、人がものすごく多い土地では考えられないかもしれませんが、田舎では当時「〇〇地区で旅行から帰った人がウイルスを持ち込んだ」「感染した人の家に張り紙が貼られて、さらされているらしい」というような、本当か嘘か分からない話が飛び交っていました。
未知の、死に至るような感染症への恐ろしさと同じくらいに、『感染したら身元も家もすぐにバレて、周囲から白い目で見られる』ということの恐怖がありました。
小さな子どもたちを守らなきゃという緊張感
また、子どもたちはまだ保育園に通っていた頃だったので、マスクの着用やソーシャルディスタンスなど十分な予防がしきれない年齢でした。
小さな子どもって、よく分からない微熱や鼻水なんてしょっちゅうあるじゃないですか?
その、感染しているのかただの風邪なのか分からない症状にも、いつも以上にハラハラする日々は、今思い出しても緊張感で疲れてしまう毎日でした。
母は私の警告を無視して友人と旅行へ
住んでいる地区は違えど、両親も田舎住まいですので、感染しないよう度々注意喚起をしていました。
でもまだ身近な感染者がいない時期だったこともあってか、母は私の注意を聞きながらも、友人たちと旅行に出かけていってしまいました。
実家への帰省を頑として拒否した理由
母の旅行は、「再三の注意を無視された」というショックと、「この人とは危機管理意識の水準が違う」といういら立ちを、私に大きく植え付けました。
そうして私は、事態が治まるまでは実家との交流も帰省もしないと、心に決めました。

「可愛い時期の孫に会わせてもらえない」という嫌味
でも、いくら言葉で危機感を伝えても、両親からは孫に会えないことの不満や寂しさの言葉ばかりで、緊急事態だからという認識は最後まで共感してもらえませんでした。
両親にとって耐え難かった孫との距離
どうしても孫に会いたかったのでしょう。
両親は突然訪問してきたり電話の際に嫌味を言ったりと、こちらの都合や事情を汲んでくれない行動が増えていきました。
「忙しいあなたを助けたいから」と料理を差し入れに来ることもありました。
両親のそうした行動には、毎回困惑させられました。
まるで自分が親孝行できていないと言われているようで、せっかく顔を見ても、両親に会えた嬉しさや手助けへの感謝の気持ちではなく、疲労感やこちらの思いが伝わらない焦りばかりが募りました。
それでも譲れなかった私の境界線
その頃はまだ、私も夫もうつ病になる前でしたが、感染予防についての私たち夫婦の危機管理意識は一致していました。
だからより一層、自己中心的で時に迷惑に感じるほどの両親の行動は、両親に対する印象を悪いものにしていきました。
両親が求めれば求めるほど、私は距離を置くような対応をするようになっていきました。

夫のうつ病をひた隠しにするしかなかった
そんな背景もあったので、夫がうつ病になった時も、両親が力になってくれるかもしれないという発想はなく、ひた隠しにすることにしました。
だってきっと、私の思いや夫の体調を慮ることよりも、彼らが「役に立った」と感じることが優先されてしまうから。
そうなれば、私と夫のどちらも、負担が増えると思ったから。
両親を味方と思えなくなっていた私
その頃にはもう、両親に助けてほしいとか、話を聞いたりしてほしいとか、そういう希望はまったく持てなくなっていました。
自分が家庭を守らなきゃ。
夫を支える良き妻でいなくちゃ。
苦しくてもしんどくても、両親には一切甘えられませんでした。
収入が減って生活が苦しくなっていることも言えない
うつ病の夫のケアだけでなく、収入が減っていることも、当時の私の心にじわじわと不安と焦りを与えてきました。
それでも相談しようとはどうしても思えず、私がフルタイム勤務を続けていくことで乗りきらなきゃと、またひとつ、自分に大きな負担を背負わせる選択しか出来ませんでした。
夫と両親が会わなくても済むよう必死で立ち回った
夫からは、うつ病だからというだけでなく、私の両親と交流したくないという気持ちも、十分すぎるほど伝わっていました。
なので、コロナが落ち着いてきてからも、両親の不満を満たしたり孫と会う機会を作ったりするのは、私だけの任務のようになっていました。

孤独感とサポートの不足
そんなこんなで、私は少しずつ、確実に、孤独の中で耐えるという生活になっていきました。
近しい人に夫のうつ病を相談できない
うつ病についての記事や本などには、
「支える家族も、ひとりで抱え込まないで」
「相談相手を作りましょう」というアドバイスをよく見かけます。
でも、私にはその選択は出来ませんでした。
家では受容的な妻・母、両親には親身な娘を演じた
夫のうつ病が長くなってきても、私はスタンスを変えられませんでした。
夫が関わる人間は、私と子どもたちだけ・・・
そう思うと、イライラしても傷ついても、「私も苦しい」と言えませんでした。
「夫が不安定な分、子どもたちの心の安定は母である私が気を配らなきゃ。」
「たまには電話で両親の話を聞いて、少しでも満足させなくちゃ。」
そうやって、誰に対しても完璧でいることを自分に強いていました。
自分らしくいられる時間がなくなった
こうしていつの間にか、職場でも、家庭でも、気が抜けなくなっていました。
「悲しい」「疲れた」「泣きたい」
そういう素直な気持ちを、表に出せなくなっていました。

自分の本当の気持ちを隠して生き延びた
今思うと、「自分の気持ちを認めてしまったら、悲観的になってもう立ち上がれない」とずっと思ってきたように思います。
負の感情も、私の本当の気持ちなのに、それを認められなかったんです。
偽りの元気と笑顔を作ることが必要だった
あの頃の私は、自分の気持ちよりも周りが安心できるように振る舞うのが最優先でした。
___「これ以上の課題は抱えられない」と思っていたから、すべてにおいて波風を立てないようにしていたんだと思います。
「誰にどんなSOSを出せばいいのか」答えが出ない
もちろん、セオリーに沿って誰かに助けを求めたいと思う日も何度もありました。
でも、もう誰を頼っていいのか、自分が何に困っているのか、それを考えるエネルギーが残っていなかったんです。
そうやって、“自分の気持ち“という大切なことから目を背けて、目の前の日常をこなすことを繰り返していったんです。
今日もここまで読んでくださって、ありがとうございました。
カウンセリングを受け続けて3年近く、やっと自分の気持ちを認識できるようになりました。
「ツライ」「疲れた」という負の感情も、全部私の一部だと言葉にできるようになりました。
今、苦しい思いをなさっている方へ。
あなたも、負の感情を見ないようにしていませんか?
その場しのぎを繰り返しても、心の疲労は自分の中に溜まっていってしまい、やがて、自分の気持ちが分からなくなってしまいます。
誰か、心を許せる人に話したり、思いっきり泣いてみたり、してくださいね🍀
